曖昧な空気の中で

昔から、物事をはっきりさせたいたちだった。つまり、白黒つけないと気持ち悪いということだ。

しかしながら、最近はどうでもいいと思うようになってきた。というか、どうでもいいと思うようにしている。

私に関わるほとんどのことがはっきりとしない。未来は読めないからという理由で、この先進む道が、だけでなく、今現在進行形の事柄も、である。

まさにこれは、PSY・Sのいう「ファジィな痛み」を伴う。モヤがかかったようなぼんやりした感じが付き纏う。鈍痛に悩まされてスッキリしない。

その代わり、雷に打たれるような苦しみを避けていられる。主導権を握り、責任持って手を下していくということには大変なエネルギーがいるのだ。逆に周りの動きを受け入れているだけの立場なら、血管切れそうな思いで何かに対して決断を下す必要がないのだから数段楽である。

私はこの楽してる感じがズルいとずっと思ってきたし、人生そんな中途半端でいいものかと思ってきた。

しかし、やはり私は今疲れてるのだ、と昨晩思った。自分が何も決めないこと、自分から必死に動かないこと、受動的になることって、こういうことなんだと分かってきた。平坦である。

いろんなことがピタリと止まった。私が精力的に動けなくなった瞬間に。ということは、私が今までいかに暴れてきたか、ということだ。

静かに、静かに、ひたひたと時間が過ぎてゆく。

自然の流れがすべてである。

今積極的になるのは、私個人の楽しみのためだけである。

お芝居、音楽、現代美術、盆踊り、ファッション。。そういう好きなもののためにだけ頑張れる。

好きな人と寄り添って生きていきたいという願望はずっとある。でも、こればかりは自分の行動や感情だけで無理やりどうにかなるものではないのだ。だから、自然の流れに任せよう。

きっと私の運命は決まっている。誰かと寄り添って生きていけるかもしれないし、孤独に一人で生きていかねばならないのかもしれない。

何もこれからのことは決まっていない。曖昧な空気の中、しばらくは趣味を楽しみながら、のんびり過ごしてみようと思った。

何かが動くときは動く。焦りも不安もいらないのだ。きっと。

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